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お話伺いメモ 2009/3/14

60代女性、2人暮らし。中央区で全焼。隣からの貰い火で全焼。近くの小学校に避難するも、あとポーアイの仮設に移る。娘のところが無事であったので、一緒に居たがやっぱり不便で仮設に移った。割合早く当って、1回の申し込みでここに入居できた。明るい人で、仮設住宅で行われたカラオケも1ヶ月2回行ったそうです。何も不自由はありませんと、いい言葉を聞きました。今は主人がカラオケに行ってます。女性だけのカラオケと男性だけのカラオケでは、何といっても女性の方がいいと言われた。

60台男性、一人暮らし。東灘区で全壊。一番ひどい所だった。高速の倒れた所の直ぐ近くのマンションに住んでいたからものすごい揺れ方をした。テレビが飛んできて頭に当り、卓袱台が股間に当った。家は全壊、頭は半壊、ここ(股間)は一部損壊と笑わせる。高速は横倒して、斜線の白いすじが見えていた。走って見に行った。車の中で、二週間暮してから小学校に避難し、12月まで避難所にいてから仮設に移った。なかなか仮設が当らなかった。仕事は物流の仕事をしていたので、休みの日でなかったらトラックに乗っていたと思う。50歳台後半に腰を悪くして、手術後余り良くない。人付き合いもしていない。親しい友人が一人いて、何かあったときの事を頼んでいる。昔は射撃やゴルフや釣りをしてお金を良く使っていた。腰を悪くしてからは趣味はテレビを見るか本を読むぐらい。生活は生活保護を受けている。ヘルパーさんは来ていない。買い物はゴープの個配を使っている。名前をお聞きして表札をなぜ出さないのかとお聞きすると、新聞屋とコープと民生委員ぐらいしか来ないからと。笑顔の良い方で、本当は人付き合いの上手な方ではないかと思った。

60歳台男性、一人暮らし。扉が開き、訪問の意図を聞かれたため、お話伺いボランティアをやっていることを告げると、地震のときの話をはじめられた。震災時は一人暮らし。和歌山で家族と住んでいたが、別れて神戸に出てきたばかりのときに被災された。ガタガタガタ、バリバリバリと学校の窓ガラスが割れる音で起きたら、間一髪でタンスと土壁がそれまで寝ていたお腹のあたりに、TVが頭の辺りに倒れてきた。避難所は、近所の福祉なんとかという建物。多いときには100人を超えて寝る場所がないくらいのところで責任者として最期まで残っていた。仮設はポーアイの市民病院の付近。仮設のときも責任者の打診はあったものの仕事が忙しく断っていた。小さい仮設であり、近所づきあいはあった。ここは当初より入居されているが近所づきあいはない。今までの一番の悩みは、いつ地震が起きてこの建物が倒れるかということ。TVに地震の文字が出るだけでぞっとする。心のケアをして欲しいけど他人に分かるわけがないと訴えられる。地震が起きたら、この建物も手抜工事のため真ん中で折れて倒れるシミュレーションが頭の中でえがけると話された。ただし、最近は不景気で地震の心配どころではなくなってきたと話される。現在も仕事をされているがいつ仕事がなくなるかが心配と話された。最後に、東條さんと合流した際に、ホントに東條健司という人物がいるということを知れて今日はいい時間を過ごせたと言われ握手をして別れた。40分程度の戸口での訪問。

40代前半、女性。インターホンを押すと、ヘルパーさんが対応された後、家の中に案内していただいた。地震のときの事は、はっきり覚えていると話される。文化住宅の2階で被災。当時は、TVゲームをしていて、グラグラグラってきて、地震やと思ったら壁がはがれて空が見えていた。お子さんが怖がっていたので抱きしめていた。揺れがおさまり、気を落ち着けるためにタバコを吸っていたら、近所から「タバコ吸っちゃあかーん」と言う声が聞えてきた。被災後は、近所の小学校の避難所へ。避難所では班長をされているときに色々苦労された様子だった。震災後に病気のため車イスの生活になり、現在はヘルパーさんが毎日来ているとのこと。ディサービスにも通っており、入浴サービス等を受けている。入浴は、ディサービスでお風呂につかれるからいいと話された。現在困っていることは?と聞くと、ヘルパーさんにペットの世話を頼めないのが不便だと話された。約1時間の上がりこみでお話しを伺った。

お話伺いメモ 2009/3/28

60代女性、息子と2人。チャイムを鳴らしても反応無し。御留守かな?と思っているとドアが少し開いた。迎えて下さったのは、綺麗にお化粧をされた60代の女性。「中は汚いから」そう言いながら小さな椅子を2つ玄関へ持ってきて下さった。足を引きずり、這うように動かれるその姿は痛々しかった。坐骨神経症と腰の骨の病気を併発され、足が不自由になったとのこと。「だから玄関まで出るのに時間がかかって。お待たせしてごめんね」。入居12年目。やっと抽選に当たってここに入居する以前は、二年間震災で全壊した自宅にビニールシートをひいて暮らしていた。37歳の息子さんと二人暮らし。旦那さんとは震災以前に離婚。生活が苦しくなり始めたのは数年前。息子さんは、器具購入の費用がかさみ、また料金未納のお客様の増加、不景気による仕事の激減により、借金が膨らんだ。退職するまでずっと働いていたが、今は足が不自由で働きに出ることはできない。そんな中、息子さんは事故を起こし、むちうちに。車は廃車。支払わなければならない額は膨大。年金を担保に返済している。息子さんは十分に動けない状態ではあるが、数少ない得意先の信用を失うわけにはいかず仕事に出ている。借金は、サラ金に関しては自己破産で清算。しかし上司のつてで借りたお金には返済義務があり、その額は多額。ここまで何度も涙をぬぐいながら話して下さった。生活保護はどうかと打診するが、「九州女やから。迷惑はかけられない」。食器を洗おうとしても、頑なに遠慮される。息子さんは、自分の存在が母を苦しめている、と考え死をほのめかしているという。毎日、ちゃんと帰ってくるかが心配」。そう言ってまた涙を流される。彼女は生後二週間、長崎で被爆されており、交通や病院にかかる費用は無料。煩わしがって手続きを怠った代わりに被爆者手帳を申請して下さったお母さまに感謝していらした。近所づきあいは無し。自治会も無く、誰にも頼れない。「私たちは何もできません。ごめんなさい」と訪問者の一人が言った言葉にも、「大丈夫です」。と強く唇を噛みしめた後、笑顔を見せられる。「働きたくても働けない。この足さえ」。何度もこう漏らし、泣かれていた。それでも終始崩れない凛とした表情に、佐治さんの言う九州女の強さが見えた。「ハイビスカスが好き。あの強さと赤い色、エネルギッシュなところが」。「雑草のように生き抜いてきた」彼女こそ、ハイビスカスそのものだと思った。

50代女性,一人暮らし。中央区で全壊。近くの会社に避難し,1フロアにいた高齢者が多い100人ほどを世話する責任者になった。すべての避難者の行き先が決まってから,最後に出て,りんくうタウンの仮設住宅へ。この復興住宅は竣工が遅かったため,ポートアイランドの仮設住宅で1年間待ってから入居。4人の子どももここから独立していった。3年前には大病をした。今までは必死でした。今は腎臓を患っているが,薬と食事療法で,透析にいたらないようにしている。教会でも毎年亡くなった方への慰霊祭をしている。何も無かったように生活しているが1・17が来ると色々と想い出します。


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