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お話伺いメモ 2009/11/14

70代後半男性、一人暮らし。灘区で全壊。仮設住宅は世話をしていたので楽しかったが、ほとんど友人はなくなり、もう行き来はない。今の楽しみはベランダで雀にエサをやることぐらい。娘は月に一回くらい来てくれる。妻がレシートを貯めていてくれましたので、ときどき1時金みたいに振り込まれます。月1回お巡りさんがチラシ配りしてくれる。週2回のヘルパーさんも3回にしてもらう。ご飯だけは自分でたいている。「3年間で2度脱水状態で救急搬送されたので、誰にも迷惑をかけずに人生を終えたいと思う」、「膝が弱って来て、銀行・郵便局が無くなったので、ATMまで行くのが大変」など、手が震える中を努力して支援シートに自ら記入して訪問を心待ちにしてくださった。頑張った人が、元気でいてほしいと、必死で願った65分でした。

80代夫婦、東灘区で被災。2階が1階を押しつぶすように家が倒壊して、娘さんと、奥さんのお母さんを亡くしたが、23日まで火葬もしてもらえなかった。一人娘を亡くした事は何よりも悔しい。今でも娘さんの同僚が1月17日にお参りに来てくれる。時には甥の家族が来てくれる。親戚の家に約2カ月世話になりその後仮設に4年近く。もう残っている人もまばらだった。ご主人は肝臓がわるくパーキンソンもすこし入って来て、時々足が勝手に動くんですよ、と笑う。何よりの救いは奥様が若々しく、兄弟いとこの助けがあればこそと。公団借り上げの市営住宅であるこの復興住宅の家賃が、今後どこまで値上がりするかが一番心配とも。45分の上がり込みの終わりに、お線香を上げさせて頂きました。

お話伺いメモ 2009/11/28

80代女性、夫婦2人暮らし。灘区で全壊。避難所はあまり大勢ではなく過ごしやすかった。六甲アイランドの仮設住宅を経てこの復興住宅に。補聴器を手にしながら、介護で疲れた身体を休める時間を割いてお話し伺いに応じてくださった。被災時1階で寝ていたご主人は、被災当日の23時頃になってやっと救出され、今年1月に倒れて7ヶ月入院、現在は要介護4の車いす生活だが耳はよく、お互い助け合って生活しているとのこと。

70代女性、一人暮らし。灘区で全壊。被災後大阪へ避難。ずっと暮らした神戸に戻ろうとこの復興住宅へ。若いときは一人で生きていくのに必死だった。5年前まで働いていた。今は腰痛を抱える以外は健康とのこと。

70代女性、1人暮らし。東灘区で全壊。六甲の仮設にお父さん(当時86歳)とご主人の三人で入居。お父さんはすぐに仮設で亡くなる。お母さんは平成6年に亡くなっている。12年前にHAT神戸に引っ越す。ここに入居して3ヶ月でご主人が心臓麻痺で亡くなる。突然、亡くなり病院への搬送やらいろいろと大変だった。娘さんがやってくれたそうだ。今は一人で寂しい、と言われていた。娘さんが近くの市に住んでいる。小学6年の娘、高校の息子の四人暮らし。できたら小学生の孫と中学の三年間、ここで一緒に暮らしたい。サンパルビル九階の住宅課に行ったが駄目だった。どうにかならないのか。一人暮らしだから孫と暮らすと助かる。孫もここにきたいと言っている。小学生だが何でもできる。一緒に暮らせたらいいのだが、としんみりと言われた。体はヘルニアで、できるだけ歩くようにしている。それとぜんそく。ぜんそくには海風がいいので近所を歩くようにしているとのこと。お孫さんとの同居で相談を受ける。

70代女性、本人の直筆(達筆なしっかりとした字で書かれていた。)灘区で全壊。(1)(ご健康状態は)今のところ良い (2)(震災後ご苦労されたことは)一人暮らしなので働かないと暮らせない。 (3)(今一番ご心配なことは)心配なことは、数年先の生活費 (4)(国や県や市へ望むことは)平成22年4月から国民保険が1割から2割になるのは困る。バス、地下鉄、ライナーなど以前の様に無料にして欲しい。その他、JR、阪神、阪急電車も七〇歳以上は半額くらいにして欲しい。(5)(その他何でも)2000年9月4日(木)から9月30日(火)まで一ヶ月、なぎさの湯2Fロビーで和菓子とグリーンティーを販売する仕事についたのですが、1ヶ月で店を閉められて、私が働いた850円×118・5時間の給料10万0725円が支払ってもらえず、相手の会社には連絡が取れず、色々手をつくしましたが、結局泣き寝入りです。私にとって10万は大きいのですが、どうしようもありません。何か良いアドバイスはありますでしょうか?  との書き込み。  (当たる事にした。)


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